年間活動
4月

去る4月2日、祖母・宣心院釈妙文禅尼(文子)の33回忌法要を山科の自宅仏間にて勤修。
孫で従兄の進藤宗法師(釧路・聞名寺住職=写真右)も参列。
 祖母は明治生まれ、武家の末裔(鹿児島・島津家)とあって、就寝時には枕元に短剣を置いて不測の事態に備えるという厳しい一面もありましたが、小生が生まれてからずっと同居しており、毎日優しくしてくれました。晩年は京都家庭裁判所の調停員を務めるかたわら、家では日本画や俳句、詩吟などを好み、小生も毎日のように祖母のそばで絵を描いていたものです。
 祖母は毎朝お内仏の前で『嘆仏偈』をお勤めしましたが、小生は隣にちょこんと座り、意味もわからないままに、祖母のとなえる嘆仏偈をいつの間にか覚えてしまいました。今でも嘆仏偈をとなえるたびに、祖母のことがなつかしく思い出されます。
龍谷大学大宮学舎講堂にて演奏
三月五日、重要文化財の龍谷大学大宮学舎本館講堂で、国内外でコンサート活動を行う僧侶ミュージシャン・北條不可思師(神奈川県)の主催する「縁絆コンサート」にゲスト出演。約二百五十人の聴衆が会場に集まりました。今回のテーマは「おかげさまでありがとう」。全十九曲のうち数曲をセッションしました。会場の声には、神奈川県から駆けつけた男性は「こんな形の布教活動があるんだと感動した」あるいは、京都市の女性は「感激しました。今日のご縁に恵まれて本当によかったし元気が出た」などがありました。
 いよいよ今年よりサウンドプラントオーズの活動が再開します。五月一日の西方寺様(愛知県)をはじめとして、全国数ヶ所での公演を行います。

青森の御同朋往く

去る2月21日、宣心院賛助会員の園村義耕師(真宗大谷派來生寺住職)が逝去されました。行年43歳、入院から1ヶ月足らずのご闘病の末、還浄なさいました。師は、青森県鯵ヶ沢町に生まれ、大谷大学大学院修了後、來生寺住職としてはもちろんのこと、鯵ヶ沢町にある「日本海拠点館」の運営委員長として鯵ヶ沢音楽祭の開催に尽力されるなど、地元でも大活躍されていただけに、突然の訃報に言葉もありません。平成11年9月、同寺にて蓮如上人五百回御遠忌を厳修された折には、小生も参修させていただきました。
 師は、宗門の伝統を大切にしつつ、音楽や文化面からも新しい形で布教を進めることが大切だといつもおっしゃっておられました。よく、ご法話で人の世の無常を口にする小生ですが、師のように身近で大切な人を失ってはじめて、それが口先ばかりのことであったと思い知らされました。
 なお、4月7日の寺葬に先立ち、5日に弔問・焼香をさせていただきました。
 
サウンドプラント・オーズ活動再開!


 サウンドプラント・オーズが1年4ヶ月ぶりに愛知県碧南市西方寺様の蓮如上人五百回御遠忌法要にて活動再開。久しぶりのステージで観衆を魅了。
 久ぶりのステージとあって、緊張もしましたが、新メンバーを加え、より充実した公演ができたかと思います。今年は各地で、新曲を披露していきます。

音がたり童話第4作!
「花の色は…」完成真近!

ついに、待望の音がたり童話第四作が完成します。題名は「花の色は…」。今までとは、少し趣を変えて近現代の物語です。いのちが受け継がれていくということがテーマになっています。今回の主題歌は、小樽市の量徳寺ご住職・岡崎芳明師が担当して下さいました。透き通った歌声が物語とぴったりと合う出来になっています。

住職継職法要に参修
 去る四月二十五日、広島県に新しいご住職が誕生しました。新住職のお名前は寺川大乗師。広島県安芸郡府中町宮の町の恵昭山教コ寺第十四世住職です。先代のご住職が急逝されたのは平成七年のことでした。それから坊守様が代務住職として、八年間、懸命にお寺を支えてこられたそうです。その重要な職務を孫である新住職に受け継がせた感慨は、法要当日の坊守様のお顔によく表れていました。まだ、二十六歳の若いご住職ですが、この若い力で宗門内に新風を吹き込ませてくれることを期待しています。
 今回、この大事な住職継職法要に参修させていただきました。当日は雲一つない快晴で、多くの方がご参詣なさいました。数百人のお稚児さんが行列に加わり、新住職を本堂内まで導きました。法要では新住職に引き続き登高座(経導師)を行い、盛況の中で法要は終了しました。
蓮如上人五百回忌御遠忌法要並びに
清沢満之記念館落慶法要勤修


6月
真宗音文化研究会 設立!

 平成十六年五月二十六日、真宗音文化研究会が設立されました。新しい布教活動を考えていく研究会に各方面から注目が集まっています

岩田先生記念講演
設立記念講演会は、京都市東本願寺北隣の大谷婦人会館・比叡の間で開催され、八十人ほどの会員並びに一般の方々が来聴しました。岩田先生は、大谷大学の名誉教授で、特に、仏教音楽がご専門であられます。講題は、「声明と音楽」ということで、日頃、私たちがお勤めしている声明の源流を分かりやすく、なおかつアカデミックに講演していただきました。来聴者の中には、浄土宗、天台宗、真言宗の僧侶の方が見え、あらためて声明の大切さを実感させられました。


会長に就任してくださった青山先生
パワフルな北海道公演!!

 去る6月20日・21日の両日、北海道ツアーを行いました。北海道へは、普段、行き慣れた土地ですが、演奏はおよそ2年ぶりのことですので、懐かしさと緊張感が合いまった新鮮なツアーになりました。

↑第1日目は、小樽での公演でした。小樽の量徳寺のご住職・岡崎芳明師とその友人・小林義典氏と大谷の3人で、歌中心のバンドを結成しました。それぞれのメンバーが、オフコースのファンということもあって、全15曲をオフコースと小田和正の曲で固めました。新しくできた会館に、70名ほどの方々が、道内はもちろんのこと東京、京都からも駆けつけて下さりました。アンコールは、オリジナルの曲の「花の色は…」で、岡崎師の甘い歌声に、会場は魅了されました。

↑第2日目は、ニセコの大圓寺様を会場にして、新しく制作した真宗音がたりの第四作目「花の色は…」を中心に公演を行いました。大圓寺様は、2年前に本堂と庫裡の落慶法要並びにご遠忌法要の時に演奏させていただきました。わずか4千人の町ですが、当日、百人ほど来聴して下さり、北海道を定期的にツアーする足がかりの感触をつかめました。
 
7月
教如上人ゆかりの地でおかみそり!

教如上人ゆかりの地でおかみそり!

去る七月二十一日、小松教務所の会館にて、近在のご門徒さん○○人のおかみそりを執行させていただきました。お一人お一人が神妙な面もちでおかみそりを受けていました。今回のおかみそりですが、「納美郡中御影」という行事の一環で行われたものです。毎年、教如上人に縁の深い納美郡中の四ヶ寺を巡り、七月二十三日に法要が勤まるというものです。

おかみそりを待つご門徒方

五十九回目の終戦記念日

 先日、知人から「陣中尊号」を頂きました。「陣中本尊」とは、太平洋戦争中に、出兵する兵隊さんに持たせた懐中本尊のことです。わずか6センチにも満たない小さな三つ折り本尊ですが、何十万というこの本尊が、兵隊さんと共に異国の地に埋もれていったのでしょう。戦時中の本山のあり方を批判して、この「陣中本尊」もその批判の槍玉に挙げられ、多くが焼却処分されたと聞きます。戦争は、確かに非難されるべきものです。しかし、死を目前にした恐怖や絶望感、あるいは、無念さ。そういった重荷を少しでも和らげてくれたのが、この「陣中本尊」だったのではないでしょうか。

陣中名号

盂蘭盆会におもう…

祖父の肖像画

↑私の祖父・瑩韶(真勝寺宣暢院権大僧正現道)は、明治十九年の生まれです。私が生まれた時には、既に、亡くなっていましたのでその記憶はありません。しかし、山科の実家の応接室に、祖父の肖像画があり、私は、それを見て成長したせいか、殊に身近に感じます。肖像画から想像すると、典型的な明治人だったような気がします。当時の人たちが、日本のことを思い、本願寺のことを思ったように、私も日本のこと本願寺のことを思っていきたいと思います。
 
8月

真夏の名古屋に「音がたりの夕べ」!
新たな拠点づくり

去る七月三十日、名古屋別院東別院ホールにて、「音がたり夕べ」2004“花の色は…”を公演させて頂きました。台風の接近で、当日の開催さえ危ぶまれましたが、台風の進路が西日本に逸れてくれたおかげで、東海地方は、小雨がぱらつく程度で、会場にお運び下さるお客様方の足には影響がありませんでした。
名古屋を中心とした愛知は、北陸、広島と並んで浄土真宗の盛んな土地柄です。特に、名古屋はお東の寺院が集中している所です。その地で、「音がたりの夕べ」を公演させていただくことに深いご縁を感じます。チッケト販売などや当日の準備など東別院の方々や名古屋をはじめとして三河や三重や岐阜のご寺院さま方に大変にお世話になりました。それらのみなさんのおかげですばらしい公演になったかと思います。そういった意味で、名古屋の良い足がかりができたのではないでしょうか。


祖父の名号

 7月には、私の祖父・瑩韶(真勝寺宣暢院権大僧正現道)について記させて頂きましたが、その原稿の執筆後、数日してから京都のとある骨董美術店から送られてくるカタログで祖父の染筆による「六字名号」を見つけました。歴代の御門主の「六字名号」は、よく目にするのですが、連枝である祖父の「六字名号」が出てくるということは非常にめずらしいことです。もともとご本尊である名号は、宗門の当主である御門主が染筆するのが通例となっています。ですからよほどのことがないかぎり、名号を染筆するということはしなかったと思うのですが、この「六字名号」はよほどのことがあって染筆したのでしょう。
 その「六字名号」が、どういう経緯を経て骨董美術店にたどり着いたのかは知りませんが、こうして祖父の暮らした山科に、五十年以上の時を経て戻ってきたことを考えると、何か大きなご縁を感ぜずにはいられません。
 「字は体をあらわす」といいますが、その「六字名号」から祖父の息吹きを直に感じとることができます。