親鸞聖人から宣心院への歴史

●はじめに

 浄土真宗の歴史は、浄土真宗のご開祖である親鸞聖人のご誕生から始まることは言うまでもありません。しかし、親鸞聖人が浄土真宗の教えをお開きになるためには、お釈迦さまをはじめ、印度、中国、日本の高僧方のお力が必要でした。ですから、有る意味では、浄土真宗の歴史は、お釈迦さまと印度・中国・日本の高僧方の歴史の上に立っているといってよいでしょう。 このことをふまえて、親鸞聖人から現代の私に至るまでの浄土真宗の歴史をお話しいたします。

●聖人のご誕生〜

 今から八百年ほど昔、聖人は、京都の東南、宇治に程近い日野の里でお生まれになりました。父上は、日野有範という皇太后宮のおそばに仕える下級貴族でした。母上は、吉光女といい、奥州征伐で有名な源義家の孫娘にあたる方でした。お二人にとって、はじめてのお子様で、忠安(ただやす)と名付けられました。それから、数年間の間に、四人の男の子が誕生しました。しかし、暮らしが貧しかったので、五人とも出家させなければなりませんでした。

●母との別れ〜

 聖人の弟君として、尋有・兼有・有意・行兼の四人がお生まれになりました。その頃、父君の有範さまは、皇太后宮大進の職をおやめになっていて、収入がほとんどない状態でした。その上、母君の吉光女さまは、健康を害し、お手元で、お子様方を育てられなくなりました。そこで、上から順に養子にだされていったのです。聖人は、父君・有範さまの兄上に当たる範綱さまのもとにいかれました。しかし、悲しいことに、聖人が八歳のとき、母君の吉光女さまがついに亡くなられたのでした。その遺言として、聖人のご出家を願われたそうです。

●末世の時代〜
 聖人がお生まれになった頃の京都は、藤原氏を頂点とする公家の勢力が弱まり、かわって武士の力が強くなり、勢力争いが頻繁に起こるようになっていますた。そのため京都の町中もたびたび戦場となり、町の人々は、家を焼かれたり、まきぞえになって命を落とした者が多くいました。それに追い打ちをかけるように、大地震や飢饉が続き、行き倒れや餓死する者で、道路は、悪臭に満ちていました。その中、仁和寺の隆暁というお坊さんは、死者の額に、南無阿弥陀仏の「阿」の字を書いて、供養していました。 

●ご出家〜
 養和元年(一一八一)春、聖人は、叔父の日野範綱に連れられて、東山にある青蓮院にやってきました。その寺の住持は、道快師というお坊さまでした。この方は、後に、天台座主になられる若き日の慈円さまでした。
 ここで聖人は、出家をお願いしました。道快師は、聖人のあまりの若さに驚き、考える猶予を与えるため、今日は、もう遅いから、剃髪は明日にしようとおっしゃいました。それに対して、聖人は、「明日ありと思う心のあだ桜夜半の嵐の吹かぬものかわ」といったうたでお答えになったそうです。

●比叡山へ〜
 青蓮院でご出家なさった親鸞聖人は、そこでしばし留まり、比叡山で修行僧となるための準備をします。年が明け、正月の十七日、親鸞聖人をご出家させてくださった慈円法師が、朝廷より天台座主として比叡山へ登るようにとの仰せがありました。その時、聖人は、ご一緒に比叡山へ登りました。
 比叡山は、全部で三千あまりのお堂や塔などがあり、そこで多くの僧侶が修行なさっていました。三千という数字は、多少の誇張はあるでしょうが、当時、日本で、一番規模の大きい寺院であったことは言うまでもありません。
 親鸞聖人は、その中の東塔の無動寺大乗院にお入りになってご修行を始められました。